Cygwinにvimをインストール
vimが自分に合ったエディタであることに気付いた。自分は主にFortranで数値計算コードを書くのだが、今まではエディタにnotepad++を使っていた。一方で、コンパイルはCygwin上で行う。コンパイル時にはコンパイルとコード修正の作業を往復することが多い。したがって、コード修正もCygwin上で行えると便利である。これができるエディタとして代表的なものにemacsとvim (もしくはvi) があるが、大学の計算機演習で利用したことがあるemacsを使うようになった。しかしながら、emacsはコマンド操作に [Ctrl] を多用するために、どうしても小指が疲れてくる。
その点、vimにはコマンドモードとテキストモードがあり、[Esc] を押してコマンドモードに移動してしまえば、emacsのような [Ctrl] の同時押しをせずともコマンド操作が行える。一見、vimのコマンドモードとテキストモードの概念は取っ付きにくいものの、慣れてしまえば段階を踏んで落ち着いてコーディング作業に励めて快適である。
しかしながら、vimは自分pcののcygwinにはインストールされていなかったので、改めて入れ直すことにした。何かの拍子にcygwinのインストーラー (setup.exeとインストーラーは同義?) を消してしまっていたようで、vimのインストールもCygwin アンインストールもできなくなってしまっているようだった。なので、新たにcygwinのインストーラーをダウンロードして、vimの入ったcygwinをインストールし直した。10分ほどかかったが、すんなりとインストールは完了。
Cygwinにvimが入ったことで、vimコマンドの勉強や数値計算のコーディング意欲が掻き立てられている。vimコマンドもカーソル移動や、ファイルの保存などのきわめて基本的な動作しか把握していないが、vimを積極的にいじっていくうちに、必要性に応じてさまざまなコマンドをカラダで覚えられるようになってくるだろう。数値計算コードは何か面白い非線形システムの時間発展が追えるコードを作ってみようか。語学と計算機は日々継続的に使っていることが大切なのだ、と個人的には思っている。
能動的にインターネットを使いたい
このブログを開設した理由として、インターネットを受動的ではなく、能動的に利用したいと思ったことにある。中学生の頃は、趣味のホームページを作ったり、ブログを作ったりして、それなりにインターネットを能動的に利用していた方だと思う。なので、インターネット上で何かを発信して、それに対して何かリプライが得られることの楽しさは知っているつもりだ。しかし、気付けば大学・大学院生になってからはインターネットを受動的に利用する側となってしまっていた。受動的なインターネット利用は、地に根を張った思考力が失われてくる気がするし、時間も浪費する。少しでも能動的に頭を働かせていたい。
自分の書いた文章を誰かに読んで貰って、何か反響が得られる可能性がブログにはある。個人的に文章を書くことについては随分と意識してきた。手書きの日記は5年間続けてきたし、思い付いたときに考えをノートにまとめてみるということもよくやった。その一方で、自分の考えを見失わずに口頭で議論することは苦手なので、考えていることが口では全く伝わらないもどかしさを感じてきた。口が達者な人間の前では、どうしても流されてしまう気がしていた。この点は自己研さんが必要な点の一つとして考えている。けれども、匿名としての自分が書いた文章を匿名の人に読んでいただいたときに、どのような感想を抱かれるのかは非常に気になる。それが自分へのフィードバックにもなる。
他にも、ブログのメリットとしては、キーボードで打ち込むので、手書きよりも筆記コストが小さい点、下書きの状態で保存しておいて、納得いくまで執筆できる点があることに気付いた。上述したように、僕はグダグダと物事を考えて、日記の形で手書きでルーズリーフにまとめたりする。けれども、手書きは時間がかかって疲れる。キーボード入力は手書きよりも早い上に、推敲と修正のコストが小さいので、より文体の整った文章を素早く書き上げることができる点で非常に魅力的だ。また、手書きの日記は続き続きで書いていくという性質上、あまりまとまっていなくても、その日のうちに無理矢理まとめて中断しないといけない。その一方、ブログは疲れたら下書きとして保存して後日編集できる。しかしながら、ひょっとするとその日のうちに無理矢理まとめてしまうということも重要なのかもしれない。その日のうちに文章を無理矢理まとめてしまうこと、じっくりでもしっかりとした文章を書き上げること、結果としてどちらが良いかについてはこれからブログを書きながら判断してみようと思う。いずれにしても、5年間、紙の日記を続けてきて、そろそろ他の媒体への移行を模索していたので、ブログを始めることはそのような点でもちょうど良いのかもしれない。また、ここに書いたブログのメリットはWordやテキストエディタでもできることだけれども、ブログという場所を用意することが、より続けられることに繋がるのではと思う。
書類整理について①
<この記事の内容を簡単に>
・日常生活を営んでいくうちに書類はどんどん溜まっていく。
・自分は書類をカバンの中やデスクの引き出しに、溜め込んでしまう癖がある。
・大量かつさまざまな重要度や必要度を持つ書類たちの整理は非常に骨が折れる。
・ひとまず、家に帰ってきたらカバンの中身を全部出すという習慣を身に着けたい。
・そして、カバンの中身の書類が必要かどうかをその場で判断する。
・不要ならばゴミ箱へ、必要ならばどうするのかは追々考える。
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就職活動や学校生活、その他課外活動を通じて書類はどんどん溜まっていく。
それだけでなく、街を歩いていても、駅前で配っていて何気なく貰うような何かの店のチラシなど、書類を得る機会はいくらでもある。
ところが自分はどうも書類をため込んでいく癖があるのだ。
どこかしらで貰った書類はまずカバンの中に入れる。
しかし、貰った書類をカバンから出さないところが自分にはある。
そのような書類がカバンに蓄積していき、カバンが重たくなって初めてカバンから書類を出す。
そして、その書類は見るでもなくいきなりデスクの引き出し中にしまう。
一方で大事な書類だってある。けれども、書類はデスクの引き出しの中にしまうという習慣が根付いてしまっているせいか、大事な書類も特に考えずにデスクの引き出しにしまう。
デスクの引き出しが一杯になり、どうしようもなくなったところでようやく書類整理に踏み切る。
ところが、このとき必要に迫られてやることになった「書類整理」が非常に厄介になってくるのである。
書類の重要度、必要度には階層がある。この階層がランダムに混ざり合ったデスクの引き出しの書類整理は非常に骨が折れるのである。
ひとまず、カバンから書類を出さない問題については、これはもう、出そう。
そういえば昔、整理整頓がきっちりできる知り合いが、家に帰ったらまずカバンの中身を全部出すと言っていた。
整理整頓ができる人とできない人との違いはこういう習慣を持っているかの違いなのかもしれない。
早速、この記事を書きながらカバンの中身を探ってみたけれども、手帳やUSBメモリー、印鑑といった大切なものが沢山出てきた。
書類整理の話から横道に逸れてしまったが、カバンの中身を全部出すという行為は書類整理以外にも大変良いようだ。
カバンから書類を全部出した時点で、とりあえずその書類が必要かどうかの判断をおこなう。
僕のカバンから出てきた書類は、先日泊まったビジネスホテルの領収書であるが、今回の場合、間違いなく必要がないのでそのまま捨てる。
必要でないという判断を下した。
では、ここで必要という判断が出た場合にはどうすればよいのだろうか?
その場合についてはまた追々考えていくことにしたい。